家出の心得/【吉澤嘉代子 エッセー連載】ルシファーの手紙 #5
2024年4月25日
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子供の頃、母に叱られて家出を決意したことがある。しかし、勢いよく階段を下りていざ玄関に出ると、いつもと違うきんと張り詰めた空気に怖気付いてしまった。一旦は祖母の部屋に逃げこんで遊んでいたものの、じきに母が恋しくなる。へそ曲がりの私は、スカーフを巻いて籠を持ち「忠実屋ヒロコです」と名乗ってリビングのドアを叩いた。近所の“忠実屋”というスーパーと、何となく素敵と思っていた“ヒロコ”という名前を合わせてみたのだ。母は幼い娘が繰り出した小芝居に笑いを堪えながら「あら? どなたですか?」と応戦した。「叔母のヒロコです。近くに来たものだから寄ってみたの。」と小芝居は続き、親子はいつの間にか仲直りしていたのである。
家出を決行しないまま、大人になった私は家を出た。だからこそ憧れは今も疼く。一張羅のワンピースを纏い、おもちゃの鍵のネックレスを掛け、台所のお菓子や蜜柑をくすねて旅に出る。そこには暑さも寒さも、飢えも渇きもない。